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執筆者の写真鈴木和人

鈴木和人は時間を考える

 どうもこんにちわ、バードウォッチャー鈴木です。

特に鳥に興味があるわけではないんですが、なぜか遠くをボーーーっと見つめているときありますよね?

あの現象に名前をつけるとしたら「バードウォッチング」だと思うんです。

そういう意味で、私も皆さんも、ある瞬間では「バードウォッチャー」なのです。


と、仮定します。


この仮定から、冒頭で私自身が「バードウォッチャー」と名乗ったからには、今この文章を書いている瞬間、ボーーーっと遠くを見ていなければ、バードウォッチャーとは言えないと思いますよね。バードウォッチングをしていなければ「矛盾している」ということです。


当然、今この瞬間はブログを書いているわけですから、パソコンの画面とキーボードに向かっているのが、まさに今!なわけですから、私がバードウォッチャーと名乗ったことは嘘になります。私は「今」キーボードと叩きながら文章を思案していますので、まさに「バードウォッチャー」ではないだろうという結論に至ることは、不思議ではありません。


しかし、「今」という時間は一体0.00000.....何秒なのでしょうか?


体験したことの全ては一瞬にして過去になります。

まるで「過去というブラックホール」に「今」が吸い込まれるがごとく、です。

そして、あらゆる状況や現象を説明するときには、必ず「過去」から引っ張り出して、まるで「今」だったかのように説明をします。


《例1》

あなたは、熱いヤカンに不注意で触れてしまったとします。

その瞬間に「アツっっっ!!」と言って手を離すでしょう。

そして、手を水で冷やします。

手は赤く腫れ、しばらくすると、水ぶくれになります。


ヤカンに触れたその瞬間の出来事は、「過去」を通じて説明されます。

「いやー。熱かったーー!!」と。

そして手の腫れ、水ぶくれを見て、意外と大事だったことを、過去の自覚していない体験から計算し、推測し、出来事として初めて体験します。


つまり、体験とは「過去」なのです。

「ヤカンに触れた」ことは、現象や出来事を指す言葉でありながら、「時間」を指し示す言葉でもあります。


《例2》

うだるような猛暑の日、あなたは仕事に向かう最中、

「暑いな〜」と思います。

朝の9時だというのにとても暑い日です。

あなたは、「暑い」という状態を常時強いられる状況です。

では、あなたが「今」暑いと感じていることは、過去なのでしょうか?

「体験」=「過去」なのだとしたら、当然この「状況」は「今」ですので、「過去」とは言いにくいですよね?


「体験」=「過去」であるならば、「状態・状況」=「今」ということが言えそうです。


《例3》

うだるような猛暑の日(状況)、あなたは仕事に向かう最中、

あなたの目の前に急にヤカンが現れ、当然気づかずに手で触れてしまった(体験)とします。

「暑いな〜」と思っていた最中「アツっっっ!!」と言って、ヤカンから瞬間的に手を話すでしょう。

そして、手を水で冷やします。

手は赤く腫れ、しばらくすると、水ぶくれになります。

うだるような猛暑の中でです。

「それにしても今日は暑いな〜」と、思い出したように猛暑だったことを思い出すでしょう。

と言った具合に、「状況」を「体験」が凌駕しました。「状況」も「体験」に飲み込まれたというか、共存した結果、過去の体験になりましたが、依然「暑い」という状況が存在しています。しかし、ヤカンに触れた瞬間、「状況」はあなたから吹っ飛び、「体験」だけになりましたね。


《例4》

うだるような猛暑の日(状況)、あなたは仕事に向かう。

そしてついに、涼しいあなたの会社に到着しました。

暑かったことは「体験」として「過去」になり、「状態」として今現在は「涼しい」状態になりました。

つまり「状況」は、「変化」によって、「体験」になった。ということが言えそうです。《例3》でも同じ状況といえる。ヤカンに手で触れてしまった(体験)ということを変化」に置き換えると状況はどうであれ、ヤカンに触れてしまったことで、「体験」に変換されてしまうのです。


「今」と認識できるのは「状況」のみであって、例えば、椅子から立ち上がった瞬間や、耳が痒いなと思った瞬間に、「状況」は「変化」し、「体験」になるということが言えるのではないでしょうか?

つまり、私が思う唯一悠久の「今」を認識できるのは「死」だと思います。

しかし、「死んでいる状況」で、「認識」できるのであろうか?という大きな疑問にぶち当たります。

そう考えると、「今」は存在しうるのか?

例えば、猛暑の中であっても、通り過ぎる人や聞こえてくる音を「変化」として認識してしまうと、途端に「今」は消え去ります。


目が見えて、耳が聞こえて、鼻がきく、味がわかる、感触がわかる、その時点で「今」を感じることは不可能なのではないだろうか?五感のいずれかが備わっている限り、「変化」を見落とすことは出来ず、「今」を感じることは出来ないのではないだろうか?


私が冒頭で仮定した「バードウォッチャー」は、「状況」を指し示す言葉であり、あくまで「今」を証明できなければ矛盾が生じます。

つまり、「どうもこんにちわ、バードウォッチャー鈴木です。」という挨拶の中の「バードウォッチャー」という言葉が、仮定通り「状況」を指し示す言葉であった場合、私は嘘をついたことになります。


というわけでご挨拶が遅れました、

こんにちは、嘘つきです。



鈴木和人


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