うだるような暑い部屋で、一人の男が天井を見上げて横たわっている。
彼の名前は岡ピート。
「あううううううあああうううううう」
静かなる奇声を発しながら彼は横たわっている。
この話はまだ岡ピートがまだ普通の青年だった頃の話だ。
日本の8月。とある日。今作品の主人公、岡ピートが普通をやめなければいけない事になった。岡家は普通という安心感と、日常という安心感に包まれた平和な家族であった。岡家もそう信じていた。ピートを除いては。岡ピートは普通を信じていなかった。自分は特別な存在なのであるという自負があった。ありふれた普通を享受しながらもピートにとっては普通ではなかった。
「ピート!いつまで寝てるの!」
いつもの昼は母、岡アノンのこの一言から始まる。
「お母さん、僕は寝てやしなんだよ、一度も寝たことなんてないんだから。」
六畳二間のごく小さなアパートの一室には、この岡親子がひっそりと住んでいる。
壁はヤニで真っ黄色で、畳のところどころはタバコの火で焦げ付いている。
家具は最低限しかない。
テーブルにテレビ、小さな冷蔵庫、小さな棚、、、そして押入れがある。
もちろんミニマリストとかそんなんじゃあない。
生活をしていく上で必要なかった。
それだけだ。
「いってきまーす」
ピートはそう言うと押入れに入っていく。
「はい、早く帰ってくるのよ!」
と、母も続く。
「わかってるさ、わかってるってんだクソが。」
ピートは小声で囁く。
押入れの襖を「バンッ!!」と閉じる。「ガチャリ」
押入れから「ジュボッ」とライターを点火する音が聞こえる。
ピートがタバコを吸い始めたのだ。
5分ほどすると、「シャコシャコシャコ、、、」と音が聞こえる。
どうやら歯を磨いているようだ。
「りゃあ!!りゃあああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
と押入れから一喝。
アノンが周囲に目をやる。人目を気にしているようだ。
そしてアノンは押入れを開けようとする。
しかし内側から鍵がかけられているようで、押入れはビクとも開かない。
その様子を確認すると「ふぅ」と安心したように一息つき、アノンは床に寝そべってテレビを見始める。
夕方になると、家のドアがガチャリと開く。
「ただいまー」
岡ミエンが帰ってきたのだ。ミエンはピートの妹だ。
「はい、おかえりねー」
アノンが言う。
いつもの夕方は岡ミェーのただいまで始まる。
「お母さん、今日の晩御飯は?」
「知るわけないでしょ!お父さん次第なんですからねぇ!」
「お母さんは一度だって晩御飯を把握していたことなんてないわよね!いったい何をしてんのさ!」
「お黙りなさいな!このトンチキが!」
アノンがそう言うとミェーはテーブルの前に座り込み、何も言わずにテレビを見始めた。
夜の7時、再び家のドアがガチャリと開く。
「ただいまー」
岡マサルが帰ってきたのだ。マサルはピートの父だ。
「はい、おかえりねー」
アノンが言う。
「ほれ!今日は満州の餃子さね!さあ!みんなで食べよう!」
いつもの夜は岡マサルのただいまで始まる。
岡家の毎日はそんな毎日だ。
ピートは小さな頃から思っていることがある。
自分は特別な環境で生きているのだと。
そして同時にこうも思っている。
自分は誰よりも長く生きることになるだろうし、とても強い生命力と、健康な体を与えられた。そして何よりも強運で守られている、と。
「分かったよ、分かってるんだ、ええ、分かっていますとも」
深夜2時、ピートは押入れを開け、川の字で寝ているマサル、アノン、ミェーを一人一人丁寧にまたぎ越して家のドアを開ける。
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