こんにちは、やおらアベです。
やおらってなんやねん。って思うけど、そういう古い日本語も耳慣れないだけで、耳慣れてればなんとも思わないんでしょうな。
「ただし」とかも「つまり」とかもそうでしょうな。ていうかなんでもそうですけどね。
なまじってなんやねん!って取り立てていうほどのことではないのだろうと思います。
「とかもそうですよね」の「とか」も「も」も「そう」も「です」も「よ」も「ね」も、そうですよね。そうでしょう?
その、なんやねん!っていう感覚に、日本語に聴き慣れた日本語に対してもなってみたい、日本語を全部一切忘れた状態で、日本語を聞いてみたい。って思うことがあります。
これは"Hardest Name in Africa"という文句で一昔前に流行ったOSASさんの動画です。名前以外は訛り強い英語。
アフリカの言葉(一括りにしたくはないけど、わからないのでごめんなさい)を聞いた時、リズムを感じる。ロシア語を聞いていると、ロシア語だなあーって思う。それぞれの言語の発音に含まれている「言葉の意味以外のもの」を感じ取ることが、私は日本語に対してはできなくなっています。「言葉の意味以外のもの」は喜怒哀楽などの感情でも、命令、尊敬、気遣い、演説風などの話法でもない、その言語のもつ感覚的な特徴のことです。ロシア語だなーと感じる、その感覚です。それがなんなのか、わかりません。単なる音の成り立ちなのでしょうか。たぶん、そうではないと思います。
複雑な話なんです。
「ロシア語だなー」という感覚は、ロシア語を聞いた時に「ロシア語だ」と、どこの言語なのかがわかるということではないのです。ロシア語を聞いている時に感じている、「ああ〜、ロシア語だなあ、」っていう、ロシア語だなあ、っていう感覚なのです。内容が、意味がわからないからこそ研ぎ澄まされて伝わってくるロシア語感なのです。もう一度言いますが、それは「悲しそう」とか「力強い語調だ」とか、そういう感情や話法を感じ取っているのとは違うのです。
何度もいろんな言い方をしてみましたが、一向にちゃんと表現できません。きっと論文とかあるんだろうな。
まあ、それで、それを、日本語に感じたい。
あああああ、日本語ってこういう風に聞こえるんだ….!!!ってなりたいのです。
自分の喋っている言語そのものが持つ感覚を自覚しておきたいのです。
お願いします。日本語を一度、忘れさせてください。
もう一度マスターする自信はないので、あああああってなったらすぐ戻してください。お願いします。
そういえば、「自分の喋っている言葉そのものが持つ感覚を自覚しておきたい」という部分はちょっと違う話ですが、それはそれで面白いかもしれないですね。自分が言葉にこめている感情・論理、話法にこめている演技・意図は、日本語を理解しない人にも身振りや表情、通訳による意味伝達でなんとかなりますが、それに加えて、その、日本語が独自に持っている「日本語感」が強制的に上乗せされるということが、結構大事な気がします。それによって、言葉・話法に込める感情も意図も、変えていきたいと思いますね。
日本語を理解しない人に話す場合を例にしましたが、実はこの観点は日本語話者どうしの会話にも大事なことなのかもしれません。
この感覚をも上手に使いこなすことが、日本語を話すということかもしれない。
一番は外から日本語を聞いてみたいってところですけどね。非・日本語話者が聞く日本語を聞いてみたい。そして、美しいかそうでないか、安心するのか、ノイジーなのか。地域差も私たちが感じるより如実に表れるかもしれない。いや、地域差は逆にわからなくなるのかな?イギリス英語の方言とか、ロンドンに近い地域間でも差があるらしいですが、私には感じ取れません。逆に日本語なら、東北っぽいとか九州っぽいとかわかりますよね。聞き取り能力と、方言の識別能力が比例するとしたら、やはり、ロシア語感は音に関する感覚ではないのかもしれないですね…ああむずかし。このくらいにしておきましょう。
最後に、前から好きな英語の言い回しを。
主にアメリカの英語だと思うんですが、「とても冷静」ってことを
「Cool as a cucumber.」(きゅうりのようにクール)って言うんですって!
最高ですよね。ちょっとワンダー言語だし。キューリとクール。
昔バンドをやっていた時に歌詞に使ったりしました。
無論、英語じゃなくて、「きゅうりのようにクール」と。
では、次のブログであいましょう。
アベでした。
新中野製作所
安倍大智
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