こんにちは、アベです。
私はガラクタ集めが好きです。
ずっと「趣味だ」と言えるものがないと劣等感にまみれて暮らしてきましたが、いよいよ少しずつ集めてきたガラクタが溜まってきて、胸を張ってもいいんじゃないかと思えるようになってきました。
私がガラクタと呼ぶものは、とても意味のないものです。非常に意味のないものに、とても意味を感じます。人間の暮らしの中には、意味のないものって実はあまり多くないのです。それなに?と質問を受けて、パッと回答できないもの。回答できないものに、逆に愛らしさを感じるようなってきました。
「逆に」と言いましたが、少し前まではそれなに?と聞かれて、いつでも答えられるように、答えられるようなものこそ素晴らしいものだとおもっていました。例えば、「I♡NY」と書かれたTシャツを着ている人に、なぜそのTシャツを着ているのかを問うた時、「NYが好きだから」と即座に回答がなかったら失望してしまっていました。「NYが好きだから」じゃなくてもいいんですが、むしろそれ以外の回答が用意されていたらテンションが上がるんですが、とにかく理由が欲しかったのです。
そんな時期をかなり長く過ごしました。結果、自分の持ち物、特に衣服に関しては「人にもらったもの」や「拾ったもの」など、強制的にストーリーが含まれるものばかりが残りました。さらには、買い物をしなくなっていました。iPhoneを充電するケーブルなど、必要なものしか買わないようになっていました。
それは当たり前といえば当たり前です。必要なものであれば、それを所持する理由がありますから。雨を避ける必要があるので、雨を避けたいので、傘を買うし、雨具を買います。お腹を満たしたいので、パンを買います。
とにかく「人に聞かれたときに、なぜそれを所持しているのかを語れる」ことが重要でした。そのことをとても考えていました。
とはいえ、買い物をしなかった間も、たまたま人がくれたものや、ひろった変なものを取っておく癖は続いていました。
そうこうしているうちに、「必要だから入手したもの」に魅力を感じなくなる時がきました。
もらったものや、拾ったものの中でも、全然使い道がないものを眺めているうちに、深みが見えてきたのです。
だんだん、「必要のないもの」「所持する理由のないもの」「意味のないもの」の魅力に気づき始めたのです。
「意味のないもの」はそれだけで、詩です。
意味がないってことはどんな意味よりもプレシャスでスペシャルです。
A「それなに?」
アベ「…」
A「なにに使うの?」
アベ「いやこれなにに使うの?」
A「知らんよ」
アベ「でも…なんかいいよね」
A「なんかいいよ…」
通常、「意味」は、ほとんどのモノに見出すことができます。
意味のあるものを持ちたい、着たいと信じて暮らしてきた私には、意味を見出す訓練がされており、つい、見出してしまうのです。どんなに「必要のないもの」でも「意味はある」って場合があるのです。「機能がある」だったりします。
それでも、そんな網を掻い潜って、「意味のないもの」が現れる時があるのです。
意味のないものを追い続けることは、意味や、「ストーリーのあるもの」を追い続けることよりも楽しいことでした。
ストーリーは他者と共有できないことが多かったので、自分の中でホクホクしているうちに薄れていったり、忘れていってしまう面がありましたが、「無意味さ」は厳然たるものでした。
無意味は、基本的に、いつまでたっても無意味だし、誰から見ても無意味なことが多いでしょう。
無意味は普遍的で、不変な気がします。
今後ともよろしくお願いいたします。
新中野製作所
安倍大智
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